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平成筑豊鉄道 はJR九州の伊田線・田川線・糸田線を第三セクター方式でに1989年4月開業した鉄道路線です。この地区は明治以来、石炭の産出地として栄え、それに合わせて輸送のために網の目状に線路が引かれ、国鉄による国有化する事になりましたが、エネルギー革命と共に採算の取れない路線は次々と廃線となりました。しかしこの路線は地域住民の熱意によって現在も列車が走る路線として現在も元気に活躍しています。路線は直方から次の南直方御殿口まではJRの筑豊本線(福北ゆたか線)と並行に走り、遠賀川を渡る所からJR田川伊田駅を目指しますが、中間地点の金田駅が平筑の車両整備基地になっています。直方~田川後藤寺間はかっての輸送量から現在も複線にて使用中で、田川伊田駅はJR日田彦山線と共用駅で、次の上伊田駅までは線路も共有しています。その後田川線最大の難所の急こう配と九州最古の鉄道トンネルをで峠を超え、今川の田園地帯を抜け、JR日豊本線との接続の行橋駅を結んでいます。また糸田線は金田駅からは遠賀川の支流中元寺川沿いに、筑豊の中心地、田川後藤寺を結んでいいます。
車両シルエット
筑豊炭田と鉄道 石炭は植物が微生物によって、分解される事無く炭化してできたものです。ここ筑豊地方は古代より遠賀川流域の豊かな土壌が植物や木々を育て、時には洪水で地中に埋没を繰り返したために、豊かな量の石炭が出来上がったものと考えられています。すでに室町時代には現在の北九州市八幡西区の木屋瀬地区では焚火中に発見した燃える石として日々の生活に利用されていたようですが、江戸時代になると黒田藩が海水から食塩を作るための燃料として積極的に採掘されるようになりました。その後文明開化と富国強兵による製鉄の燃料として利用されるようになります。折しも八幡に官営の製鉄所が作られるようになり、遠賀川の五平太船と呼ばれる石炭船での輸送力では追い付かなくなり、鉄道のよる輸送が始まりました。
筑豊地区には最盛期には250以上もの炭鉱があり、そこから積み出し港の若松や行橋まで、網の目状の路線が次々と出来ていきました。しかしそれも長くは続くことなくエネルギー革命が石油中心の時代に変化してゆきます。また地中を掘削する石炭採掘は手間がかかるうえ、大きな事故も多発する様になり、結果規模の小さな炭鉱から閉山する様になり、掘削も地中を掘り進む方式から露天掘りに変化してゆきます。露天掘りは大型の重機やトラックの使用を可能にし合理的になりましたが、石炭を採掘するのにガソリンや電気を使用するといった本末転倒な結果となり、そして貝島炭鉱の閉山と共に筑豊炭田の終焉を迎えました。それに伴い昭和初期にの最盛期には約50万人の人口が現在はその10分の1まで減少しており、石炭輸送の廃止と人口の激減が路線廃止を進める結果となる訳です。その後一時的にセメントの輸送が伸び、黒ダイヤと呼ばれた石炭から白ダイヤと呼ばれましたが現在では鉄道での輸送はありません。平成筑豊鉄道はまさに筑豊炭田の栄枯盛衰を直接受けた鉄道路線と言えるでしょう。
炭鉱シルエット

香春岳とことこと列車

観光列車 ことこと列車

鉄旅人96とこなつ
鉄旅人96 はじめて鉄道写真を撮影したのは小学生の頃の後藤寺機関区だったと思います。あの頃はまだ多くいた9600型は特に珍しいものではなく、むしろ他のタイプのSLを見たいものだと思っていたが、それも博多までの新幹線開通と同時に見る事が出来なくなった。いつも見慣れている物が当たり前ではなくなる、なくなって初めて気が付く事がある。なぜそうなる前に気がつかなかったのか…。むしろ鉄道とはあって当たり前なのかもしれないが、その当たり前がいかに大切だったのかいつも後から考えさせられる。だから普通の、普段の、当たり前の姿を残しておこうと思って平筑を追ってます。

camera-icon 沿線ガイド

鉄旅人96が各路線の車窓をお届けします

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路線図